現在、東京・帝国劇場で好評上演中のミュージカル『モーツァルト!』。
ウィーン発、日本でも5度目の上演となる大ヒット作品です。
今年は、2002年の日本初演から主人公ヴォルフガング・モーツァルトを演じてきた井上芳雄さんが今回をもってヴォルフガング役を卒業する、ということも話題。
そんな"ラスト・ヴォルフガング"に挑んでいる井上さんに、現在の心境を伺ってきました。
【『モーツァルト!』2014 バックナンバー】
#1 製作発表レポート
#2 稽古場レポート
#5 初日囲み取材レポート
● 井上芳雄 INTERVIEW ●
日々、充実しています
――東京公演も真ん中を過ぎましたね。
「あっという間な気持ちです。舞台って「前半は長くて、折り返し過ぎたら早い」とよく言うんですが、今回は前半も早かった。僕が最後の『モーツァルト!』だからかもしれないですけど、一回一回を必死でやっているうちにもう後半か...という感じです。充実しているといいますか、日々色々なことを試しながらやっているうちに気付いたらもう半分過ぎていました」
――日本初演から12年間関わってきているこの『モーツァルト!』という作品は、井上さんにとってどういう作品になりましたか?
「一番長く、たくさんやっている作品で、僕のキャリアのほぼ最初、俳優を始めて3年目くらいから今まで定期的にやらせてもらっているので、やっぱり自分にとっては俳優として多くのことを教えてくれた役であり、作品じゃないかなと思います。酸いも甘いも、ではないですが(笑)」
――初演の時は、井上さんにとってミュージカル初主演でした。
「アッキー(中川晃教)とふたり(Wキャスト)だったんですが、自分たちみたいな若造が真ん中に立っちゃってすみません...という気持ちでしたね。タイトルロールも初めてでしたし、色々なことが初めて。ただ正直、主役のプレッシャーがどうの、というどころじゃなかったんです。それよりも自分がこの役をやることで必死。後から考えればまわりの皆さんが僕らを盛り上げてくれていたんだと思いますが、自分のことに必死でそれにも気付いていなかったくらいです。今でもキツイ役ではあるのですが、自分でも最初の頃は力が入っていたと思いますし、力の抜き方もわからず、すべてを全力で...!という感じでやっていました。自分は技術も経験も役に付いていっていない、足りないところもいっぱいあるけれど、せめてとにかく必死に、全力でやっていることだけは、自分がヴォルフガングをやる意味があるんじゃないかと思ってやっていたんです。
でもやっていくうちに...例えばこの作品はだいたい、初日とゲネプロを同じ日にやるんですよ。その日は1日に2回やらなきゃいけない。必然的にゲネプロでは力を押さえてやらざるをえない。でもやってみたら意外とそれでも大丈夫だ...といいますか、逆にこういう表現が出来るんだという発見をしたり、どこまで力を抜いてどこで力を入れたらいいのかという発見をしたり、本当に色々なものを教わっています。今もそうです」
――初演の頃と今、井上さんが感じるヴォルフガング像は違うものなのでしょうか。
「そうですね...やるたびごと、その時の自分が出せるすべてのものを、と思ってやってきていますが、やっぱり最初の頃はヴォルフガングと自分の間にすごい距離を感じていました。自分にはぜんぜんない要素ばかりの役だと思っていた。必死に少しでも掴もう、追いつこうともがいていたんですが、でも12年たっても決して、僕が何もしないでもそれにみえる役ではないと思うんですよね。そんな役をよく12年間もやったなとは思うんですが(笑)。でもたとえそういう役であったとしても、やっぱり自分なりのアプローチで積み重ねていった結果、今はものすごくヴォルフガングとの距離を近く感じているんです。今はヴォルフガングになるぞ!演じるぞ! という力みはほとんどない。今までやってきたことと、今感じることをもって、舞台上に出ていっている。役との付き合い方というのはこういうこともあるんだなと教わった役でもありますね」
流れに身を任せながらやりたい。
僕がヴォルフガングを理解できるかはあまり関係ないと思っています
――すでに上演中ですので、作品の中身の具体的なところも伺わせてください。まず一番大きなポイントだと思います、アマデはヴォルフガングにとってどんな存在でしょう?
「アマデは自分自身ですね。もちろん才能の象徴、それがこの作品の中では具現化されてしまっているというだけで...うん、自分ですね。自分の中のもので、才能に対して忠実な"部門"(笑)」
――『星から降る金』のシーンでは手を伸ばす動作が印象的でした。あれはやっぱり"金"を掴もうとしてるんでしょうか?
「そうですね、掴みたい...というか見えているんです。自分がこっちに行けばその金が掴めるんだなというのが見える。そのシーンに限らず、ヴォルフガングはよく、何かを掴もうとしているんですよね...あ、僕が勝手にやってるだけなんですけど(笑)。こうやって(手を伸ばして)掴もうとしている。最後の"モーツァルト幕"も掴もうとするし。やっぱり彼は何かを、例えば名声とかを掴みたいという意識が強いんじゃないかな」
――『影を逃れて』で、「自分の運命を拒めるのだろうか」という歌詞がありますよね。おそらく彼の運命とは音楽の道だと思うのですが、彼はその運命を否定したいのでしょうか?
「自分は才能があることははっきりしているけど、それを活かさないという道もあるんじゃないかと思ってるんじゃないかな。酒を飲んで、女の人と楽しんで、ピアノか何かを弾いてそこそこの暮らしをする道もある。才能を絶対使わないといけないの?それを活かさない人生もあるんじゃないの? と。実際、そっちの方が楽だと思うんです。才能があるからこそ反抗心も出てくるし、父親ともうまくいかない。才能さえなければ、別にウィーンで大成するんだとか言い張る必要もない」
――一方で音楽こそ自分の生きる道、という意識もあるんですよね?
「才能があるから、本当は書かずにはいられないし、逃げることはできないんだけど、人間っておろかなのであがくんでしょうね...。もしこれじゃなかったら、こんな人生じゃなかったら、というのは常に考えている。誰でも、それは僕も一緒だと思います」
――レクイエムの依頼のシーンで「自分の力で書くのです」という言葉がありますが、それはどう受け取っていますか? アマデも自分自身ではあると思うんですが...
「完全に天才的な曲が書けるのはやっぱりアマデなんです。ヴォルフガングだけで書くと、普通の作曲家が書くくらいの音楽しか書けない。ヴォルフガングがやっているのは基本的にチェックすることだけなんですよ。最後のシーンは『レクイエム』を書こうと思ったけどアマデがいないから、苦しんじゃうんですね。ヴォルフガングのそばからは、お父さんが去り、コンスタンツェが去り、そして多分死期も近いとわかっている。でも『魔笛』で名声を得て...あのシーンの"モーツァルト幕"が名声なんだと(演出の)小池さんが言っていたんですが、その名声は自分のものだ、自分はこれだけ色々なものを失くしながらここまでやってきたんだから、お前の力を借りずに俺は書いてみせると意地を張る。そこでアマデと仲たがいするんです。最後は、それこそ『影を逃れて』で言っているように、自分の人生を自分で決めてやる、と意地を張るんですが、まぁ、それが上手くいかなかったんですよね...」
――あ、そこはやっぱりヴォルフガングとアマデは"別モノ"なんですね。
「そうですね、なんと言いますか、細かくは観る方が感じて決めてくださればいいので。僕はできるだけ「こうかな?」「ああかな?」って思ってもらえるようにやればいいと思っています。自分もわからないところもたくさんあるんですよ(笑)、もちろんわかっているところもあるけれど。実は3回目・4回目くらいの時は、ヴォルフガングのことをわかるようになってきたと思ったし、こうしたいとか、こうじゃないんだ、と思ったんですが、今となっては、すべてわかってるフリをしてやるというよりは、今日はこうかな、と流れに身を任せながらやりたい。もちろんテーマや軸は変わらないと思いますが、セリフに書いてあるまま、台本に書いてあるそのままを、自分を通してやっている。僕がわかるとかわからないとかはあまり関係ないと思っているんです。...やっていると「なんで俺はこんなに妻に冷たいんだっけ」とか、ふと我に返る時もありますが(笑)、「自分がこう思うから」というような気持ちは薄くなった気がしますね」
――自然体でヴォルフガングになっているんですね。
「やっぱり最後ってこういうすがすがしいところがあるんじゃないかな(笑)。宝塚の方の退団公演はこんな感じだろうと思うくらい」
モーツァルトは大衆に消費され続けている
――話を戻して、その『レクイエム』を作曲しているシーン、ナンバーとしては『モーツァルト! モーツァルト!』のところの表情もぐっときます。最初は微笑みながら書いてるのにどんどん追い詰められた表情になっていきますよね。
「最初はまだアマデの残り香があって書けるような気がしてるんですが、どんどんこう...大衆の「モーツァルト!」という声に追い詰められていきます。モーツァルトって大衆に消費され続けていると思うんです。彼の実人生も、大衆(の人気や都合)に乗せられて落とされているし、今の時代の中でも彼の音楽は消費されている。あれだけ人気を集めたのに、死ぬ直前はお金もなかった。大衆に翻弄されている。みんなが「モーツァルト、モーツァルト」と言っている、その声に打ちのめされた...。僕は曲の最後にブワっとあおむけに倒れるんですが、あれもなぜ倒れるのか、自分でもわからないんです。倒れろと(演出で)言われた覚えもないですし、育三郎は倒れてないですよね? でもなんか...イメージですよね、ダメだ、書けない...! という。何かがはじけちゃった。感覚でやっていますね、僕(笑)」
――なるほど、今のお話でもやっぱり自然体でヴォルフガングに<なって>いらっしゃる気がします。そして最後『影を逃れて』があるんですが、この曲、1幕ラストと2幕フィナーレの2回登場しますよね。気持ち的に違うのですか?
「最後の『影を逃れて』は、みんな、役じゃなくてその俳優自身でいいと初演の時から言われていて。もちろん役の気持ちで歌ってる人もいると思いますし、衣裳を着けてますのでお客さんはその役として観ていると思うのですが、役から離れていてもいい。物語の設定は関係なく、自分が自分の人生を考えた時にどうか、ということをお客さんに問いかけて終わるんです。僕は...モーツァルトはその前に死んでいますし、ちょっと高いところから登場しますので、天国から、先に行った先輩としてみなさんに問いかけます、という気持ちですかね...」
――ではあまり苦しくはない?
「そうですね、色々な時があったと思うんですが、今回はそんなに苦しくはないです。自由になったというか、ヴォルフガングはヴォルフガングとしての結末を迎える。最後にアマデとやっぱり自分たちはひとつなんだと再確認して終わるので、そういう意味ではいい人生だったと思う。ただ生きているということは、影がつきまとうし、影から逃れられないこと。その気持ちを皆さんに問いかけつつも、穏やかです」
――ありがとうございました。少し話を変えて、井上さん個人として好きなシーン、思い入れがあるシーンはありますか?
「今お話した最後の『影を逃れて』は好きですね。稽古を観ていても、出てくる人の表情がそれぞれなので感動する。思い入れは、それぞれのシーンにあるのですが...。『残酷な人生』はそうかな。あの曲は本当に帝劇の広い舞台にひとりっきりで歌う、しかも馬車が来た、街がどうだとか、その対象がないんですよ。全部自分のお芝居で見せるしかない。歌もすごく難しいし、テーマも難しい。初演の頃は本当に嫌でした(笑)。どう歌ったらいいのかわからないし、お母さんを亡くしたこともないし、人生が残酷だと思ったことすらなかったんですよね。僕はそこまで幸せな人生を送ってきたんだと思う。何よりも<2千人対ひとり>で何かをするという覚悟がなかった。お客さんの圧に押されちゃうんです。奥から前に出て来るんですが、前に出るのが怖い。初演の時は、最後無理やり歌いきって息も絶え絶えに去る、みたいな感じだった(笑)。今でも大変ではあるんですけど、やっぱりいつからか、お客さんと対峙できるようになったといいますか、今はやっぱりお客さんに聴いて欲しいなと思います。自分はこう思って、こんな経験をして、こうなんだよねというのを。あの歌を歌うと、<お客さん対自分>というのをすごく考えますので、そういった意味で思い入れはあるかもしれません」
――今回Wキャストで演じている山崎育三郎さんのヴォルフガングはご覧になりましたか?
「通し稽古を観ました。同じ役なのであまり冷静には観れない部分もありますが、育三郎も前回(2010年)やって、2回目。僕自分もそうだったんですが、2回目ってすごく大きいし、大切。育三郎は前回の1回目を必死に、体当たりでやって、それが素晴らしくて、でもきっと自分の中でもいろいろあると思うんです。今回それを、また違う今の自分で...という気合いもあるだろうし、実際4年間で変わったと思うので、そういう意味では前回から違う男になって帰ってやっているんじゃないかなと思いますね。僕と育三郎もStarSを組んだりしてこの4年間でより仲を深めたし。...なんかこう、育三郎がいるから自分もファイナルとして終われる、託していけるなという気持ちはあります。自分も次にいきたいし、僕が言う筋合いはないかもしれませんが、育三郎はまた3回目、4回目とやっていくのかもしれませんが、すでに充分立派に自分のヴォルフガングをやっている。素晴らしいし、素敵でいいなと思います」
新しいスタンダード・ミュージカルを生み出す現場に関われたら
――最後に、井上さんはこれが"ラスト・ヴォルフガング"と発表されていますが、ヴォルフガングを卒業して、俳優としても新たなステップに入るのかなと思います。この先、俳優としてどんなことをやっていきたいですか?
「そうですね...。今、ミュージカル界全体を見ると大きい作品、『エリザベート』や『モーツァルト!』、『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』といった、タイトルだけでも皆さんがわかる、浸透しているものがたくさんあって、それは財産だと思うんです。お客さまはあの作品ならもう一回観たいと来てくださる、それは素晴らしいこと。でもやっぱり昔よりは新しいヒット作は出にくくなっていると思うんです。ですので、翻訳ものなのかオリジナルなのかはわかりませんが、あれをやれば絶対お客さんが来てくれる、というような作品を自分たちの世代から生み出せたらいいなと思います。やっぱりそういう作品がどんどん出てこないと、ジャンルとしてもあまり健全ではないと思いますし。『モーツァルト!』だって最初はどうなるかわからないまま始めて、これだけ大きくなって愛されてきた。この作品は自分が最初から関わらせてもらってやらせてもらってるけど、そこは卒業しますので、次の新しいスタンダード・ミュージカルを生み出すところに関われたらと思います」
舞台写真提供:東宝演劇部
【公演情報】
・12月24日(水)まで上演中 帝国劇場(東京)
・1月3日(土)~15日(木) 梅田芸術劇場 メインホール(大阪)