みなさん、こんにちは。
『THAT FACE~その顔』演出の伊藤大です。
立ち稽古中の様子
今回は、前回の続き
翻訳 小田島恒志さん、小田島則子さんからのメッセージをお届けします。
「向こうの現代劇って、そんなのばっかなんだよね」と、ある日研究会から戻った僕(恒志)がこぼすと、則子が「じゃあ、こんなのどう?」と言って示したのが、イギリスの情報誌に劇評が出ていた『That Face ―その顔―』だった。一九歳の女性が書いてロイヤル・コート・シアターで上演された、とある。それだけでも興味深かったが、さらにその劇評で気になったのが「観客席にいる多くの人たちが共有する問題を扱った」という表現だった。考えてみると、イギリスの演劇はどんなに殺伐とした悲劇でも、悲惨な貧困や差別を扱った問題劇でも、観客はどこか「高みの見物」的な立場で見ているイメージがある。「イン・ヤー・フェイス」も問題を共有していないからこそ、客席で眉をひそめて見ていられるわけだ。だが、この戯曲は観客層と同じ目線の芝居らしい。
さっそく、本を取り寄せて読んでみると、いきなり女子高の寮のリンチまがいの暴力シーンに「クスリ」が絡んでくる。ああ、やっぱりな、と思ってよく読んでみると、何だか様子が違う。あれ? そんなに暴力的でもないぞ。「クスリ」も別に麻薬ってわけじゃないようだし・・・さらに場面が変わるといきなりベッドシーン。それも母と息子が!? じゃあ、やっぱり・・・ところが、これもよく読んでみると、想像していたタブーの世界が描かれているわけではない。どうやら、お金に苦労しない中流(の上)階級の家庭劇のようだ。いや、家庭崩壊劇、いや、崩壊した家庭劇、いや・・・何て言ったらいいのだろう、今までに見たことも読んだこともないような、ごく普通の、何不自由ない環境にあっても起こりうる、まさに「観客席にいる多くの人たちが共有する問題を扱った」劇だった。
先に読んだ則子の反応はもっと大きかった。何と言っても、母と息子の年齢設定がまさに我が家と並行していたからだ。まあ、うちの息子は「ロシアの兵隊さんのように美しい」わけでもないし、父親(僕)が子供を全寮制の学校へ入れたり(年間五百万円ぐらいかかる)、海外で新たな家庭を築いて養育費を送ってきたりするほどの甲斐性があるわけでもないが・・・。
二人でこのポリー・ステナムという新星女性作家のとりこになり、第二弾『Tusk, Tusk』も読んでみたが、これも親のネグレクトにあった三人の子供たちを描いた「もともと何不自由なかった家庭の崩壊劇」だった。面前でタブーを見せつけるわけではないのに、心に痛いものが刺さってくる。まさに「イン・ヤー・フェイス」以後の新しい演劇の始まりである。