ここ数年、話題の舞台にこの男あり!
そんな言葉が決して大げさではない。注目の舞台へ次々と出演し、めざましい活躍を見せる成河。
昨年末から今年1月にかけては『わたしは真悟』で自我に目覚めた産業用ロボット・真悟を体現したかと思えば、3月より上演中の劇団☆新感線の『髑髏城の七人』 Season花では、"悪の華"とも言える天魔王を凄まじいまでの存在感をもって熱演し、称賛を浴びています。
そんな成河さんが「僕にとって、この15年ほどやってきたことの"総決算"になる」と並々ならぬ覚悟で臨むのが野村萬斎の演出による舞台『子午線の祀り』です。
「平家物語」を題材に、歴史に名高い源平の合戦を描いた木下順二の傑作戯曲が、萬斎さんの下で新たな物語として生まれ変わります。成河さんが演じるのは、過去に萬斎さんの父・野村万作さんや市川右近さん(現:市川右團次)ら演じてきた源義経。「いまは恐怖のどん底にいますよ」──そう苦笑しつつも、新たな挑戦を前に目を輝かせる成河さんに話を伺いました。
──演出の萬斎さんからは、かなり早い段階で、本作への出演をオファーされていたそうですね?
そうですね。だいぶ前にお話をいただいたんですが、恥ずかしながら不勉強で、この作品のことを知りませんでした。そこで初めて、戯曲を読んだんですが、自分が参加するという以前に感動しました!
──平知盛と源義経を対比させながら、古き美しい日本語で、"群読"という独特の朗読表現を用いながら平家が滅亡するまでが荘厳に描かれます。
日本に生まれて、この作品を知らないなんて損だなって思いました。日本語だけでこれだけ幅を持った表現ができるということもそうだし、ものすごく挑戦的に攻めている作品で、鳥肌が立ちました。そのときは自分が演じるなんてことを考えずに作品を受け止めようとしていましたが、勉強すればするほど、徐々に恐ろしさがわいてきました(苦笑)。
──どういう恐怖ですか?
野村万作さん、市川右近さん、嵐広也さんといった、伝統芸能の世界の方々が演じられてきた役をやるということへの恐怖ですね。伝統芸能の方々が、それぞれの様式で喋ってきたセリフに、その様式を持たない僕がどうやって、何を武器に立ち向かえばいいのか...。
──いまの時点で、義経という役をどのように捉えてらっしゃいますか?
普段から、選択肢に幅があればあるほどいいという思いで、あまり人物像を固めて稽古に臨まないようにしているんですが...。特に、この作品で言うと、知盛と対峙した描かれ方をしていますよね。知盛が自らの心情や起きたことを事細かに言葉にしていくのに対し、義経は多くを語らない。余白を多くもって書かれているので、なおさら事前に決めつけずに、稽古に臨めたらと思っています。
──一般的なイメージでは、義経は悲劇のヒーローですが、本作に関しては、あくまで主人公は萬斎さんが演じる知盛。義経は平家を滅亡へと追いやる敵役ですね。
いま、ちょうど演じている天魔王もわかりやすい敵役で、その面白さを感じてるんですが、義経はまたちょっと違う気がしてます。さっきも言ったように「語らずしてなんぼ」なんですよね。敵役だけど、実はいろいろあって...と細かく説明されると興ざめしちゃうと思うんです。それよりも見た人に「なんであんなことを?」とか「もしかしたら...」と考えていただきたい。例えば、敵の船の漕ぎ手を射るという、戦の法に反することをするけど、知盛なら心境から理由までバーッと喋りますよ(笑)。でも義経は、行為自体が淡々と描かれていく。その裏を想像していただくと面白いんじゃないかと。
──この作品ならではの魅力をどんな部分に感じていますか?
一番の強みであり、難しさでもあり、この作品の意義とも言えるのが、"語り(モノローグ)"と"対話(ダイアローグ)"の言葉が同居しているところだと思います。それはすごく難しいことで、シェイクスピア的ですね。
伝統芸能というのは、あの長い語りの言葉を語るためにあると思うんです。あれだけ長いモノローグを古語で語ろうとするとき、伝統芸能の様式でなければ太刀打ちができない。万作先生、右近さん、嵐さんは古典芸能の方々なので、それぞれの様式を武器にして、取り組まれている。でも、僕はその様式を持っていないので、どのように自分なりの表現をするかを考えているところです。
──まだ稽古は始まってないですが、現時点で萬斎さんからはアドバイスなどはありましたか?
読み合わせをしたときに「いろんなやり方をどんどん試してほしい」と言われました。萬斎さんは、すごく開かれた方ですし「この『子午線の祀り』という作品自体、再演を重ねる中で、常にいろんな実験をしたり、寄り道をしてきた作品なんだ」と。でも「結局、本来の語り口に戻ってくるんだ」と仰っていたのが印象的です。それは、じゃあ最初からそうすればいいのにって話ではなく、なぜそれが有効なのか? その都度、確認する作業が大事なんだと。ただ「やはり言葉に従事する表現なんだ」とも仰っていて...。
──「言葉に従事する表現」?
つまり、気持ちや感情ではなく、言葉に寄り添うことで初めて成立する文章。話し言葉ではなく、書き言葉の美しさを極めた世界であり、感情で突っ走っても決して登り切れない山なんです。その技術の粋が、伝統芸能の語り口に詰まっています。そこから少しでも得られるものがあればという思いです。
──ここまで伺っただけでも、これまでにない大変な挑戦になるということがわかります。
新しい扉ですね。でも、「平家物語」の原文を現代のお客さんに伝えるには、そのプロセスが必要なんです。現代語に訳して「でもね、あのとき義経は...」って言うのとは、違う美しさがここにはあるので。包丁の使い方を学んでる感覚かな...(笑)?
──包丁の使い方?
目の前に食材があって、筋を切ったり、小骨を取ったり、自分の知らない優れた包丁の使い方が存在する。それを学んだ上で、自分なりの料理を作っていけたら...。そこには、単に伝統として受け継がれてきたというだけでなく、合理性があるんです。こうすれば食材が切りやすくなるよって。具体的には"息"をどう使うかということです。5行、6行におよぶ息の長いセリフで、どうやってひとつの画を表現するか? なかなかその通りにできるものではないですが...(苦笑)。
──そもそも、これまで狂言師や歌舞伎役者が演じてきたこの難役を、萬斎さんはなぜ成河さんにオファーしたのだと思いますか?
そこは、僕なりに理解しているところはあります。2017年に新たにこの作品をやるとなったとき、2017年の観客に伝えるために、大きな"変革"を起こしたいって思われたんでしょうね。実際、萬斎さんに「こんな作品にしたいんだ」という熱のこもったプレゼンテーションをしていただきましたし、その思いに僕も惹きつけられました。
──本作の日本語の美しさの話がありましたが、成河さん自身、つかこうへいさんや野田秀樹さんの作品に出演されてきて、"言葉"を非常に大切にする俳優さんだという印象があります。ある意味で、本作への出演は必然だったのではないかと。
そう言っていただけるのはすごく嬉しいです。僕ね、運動音痴なんですよ、もともと(笑)。子どもの頃、本当にスポーツができなくて...。いまになって、野田さんやいろんな方とご一緒して、飛び回ったり、走り回ったりして「身体が利くね」「身体能力高いね」なんて言っていただけているけど、自分ではそんなこと一度も思ったことないんです。役者の能力って、大きく分けて、身体表現と音声表現があると思うんです。
──成河さんはどちらかというと...。
音声表現の方が好きだったし、身体はあくまでもそれに付随するものだって意識でした。落語が好きで、自分で練習したこともあるし、つかさんや野田さんの紡ぐ言葉を語れることが喜びでした。だから、今回の出演についても、自分なりに思い当たるところはなんとなく、ありますね。
──萬斎さんは、成河さんの「響く声がよい」と仰っていたそうです。
本当ですか? それは初めて聞きました(笑)。ただ、この作品はやはり言葉ありき。長い文章の中で表現される言葉がとにかく美しく、セリフを耳にしながら頭に浮かんでくるイメージが本当に素敵だなと思うんです。だから、お客さんの頭の中に浮かぶ"画"をゴールにしたいです。"音"や"声"が耳に残ったり、"表情"が脳裏に浮かぶのを通り越して、"画"が浮かび上がればいいなって。いや、それが最も難しいことなんですが(苦笑)、それでも僕が目指すべきはそこなんじゃないかと。
──演出家・野村萬斎とのやりとりで楽しみにしていることは?
たくさんお話ができたらいいですね。謙遜でも遠慮でもなく、僕は本当に何もできないので、話し合いながら作りたいです。「僕が持ってるものはこれなので、こんな義経を作ります」でも「こんな義経を見せたい」でもなく。萬斎さんが2017年に表現したい『子午線の祀り』があって、そのビジョンを共有して、そのための義経を一緒に作っていけたらと思います。
──ここ数年、話題作で存在感を発揮され、高い評価を得てらっしゃいますが、演劇界でこれだけ求められる存在になって、ご自身の中で変化はありますか?
そこはハッキリしてて、自分の中で変わったことは全くないですね。正直、活躍してるなんて思ってないですし。もちろん、"外側"からいただける声は嬉しいし、励みになりますが、中と外って違うものですから。そういう意味で、"中"は変わってないです。ただ材料が増えていくだけですね。
──"材料"が増える?
僕は、知らないことを知るために演劇をやっていると思うんです。日々、知らないことに終わりはないですし。いや、もちろん「俺は自分を思い切り打ち出して、ヒューヒュー言われたい!」っていう気持ちで演劇をやってる人がいてもいいんですよ(笑)。でも僕は、いろんな様式や作家さんに興味があって「え? それ何? 知らない!」ってそこに駆け寄っていくということを繰り返してきたし、それはいまでも同じ。もちろん、10年前、15年前と比べて、知ってることは増えて、自分の中にいろんな"材料"は蓄積されてきたけど、知れば知るほど、知らないことが増えるのがこの世界なんですよね(笑)。
──「成長」とか「ステップアップ」なんて言葉で言い表すものではなく?
成長とかステップアップって、自分で言ってちゃダメでしょ。たかだか10年くらいで、自分を客観的に見ることはできないですね。目の前しか見えないから(苦笑)。小難しいこと言ってますけど、好奇心だけ。それ以外は何もないですよ。
──ご自身の「成長」とは別に、役者という仕事に対する考え方やスタンスで、年齢を重ねたことで変わった部分はありますか?
ここ数年、「人と共にある」ということを考えるようになりましたね。人と共にあることが演劇であり、だからこそ僕は、演劇をやっているんだ、と考えが整理されてきた。それは20代の頃とは違いますね。
──それはハッキリとしたきっかけがあって?
ありますね。作品や役、演出家の方との出会いがあって、コテンパンにされた経験もありますし(苦笑)。そこから"作品主義"になってきたと思います。
──映画『美女と野獣』には日本語吹き替え版のキャストとして参加されていますね。
声だけを録るというのは、行ったことのない場所へ行き、食べたことのないものを食べてみたという経験でしたね。結構、おいしかったです(笑)。すごく大変でしたが、完成した作品を見て「なるほど」と感じるところもたくさんあり、毛嫌いせずにやってみてよかったと思います。こういう経験をできるからこそ、いろいろやってみようって思うんですよね。「毛嫌いしても何も生まれない」というのが信条なので、これからもいろいろやってみます!
──最後に改めて、成河さんにとって、今回の『子午線の祀り』への出演がどういう挑戦になりそうか? 教えてください。
この10年、15年ほどの間で、いろんな様式に興味を持って、いろんなところに行って、いろんな経験をしてきました(笑)。今回は、その"総決算"になると思ってます。これまで、これまでいろんな経験をして少ないながら積み上げてきた様式のカケラ──それは必ずしも全てが根を張ってるわけではないですけど──それがこの究極の言葉たちによる物語で、どこまで通用するのか? いや、基本的にそれは、伝統芸能の根っこでしか語りえないものだとすでに証明されてるんですよ。だから、ある意味で"負け戦"なのはわかってるんです(苦笑)。
──それでも、この圧倒的に不利な異種格闘技に挑む?
その根っこを持ってない僕がどこまで立ち向かえるかが、試されると思います。この15年ほどで培ってきた全てを使って挑もうと思います! それは個人的なことですが、最初にも言いましたが、日本で生まれたからには、こういう作品、日本語を知らないって、もったいないことと思います。それを僕自身、もっと突き詰めたいし、きちんと伝えられたらと思います。
取材・文:黒豆直樹
撮影:桑原克典
★萬斎さんのインタビューはこちら
野村萬斎の演出で新たに生まれ変わる『子午線の祀り』