井上芳雄さんがホストを務め、日本ミュージカル界のレジェンドたちをゲストにトークをする「レジェンド・オブ・ミュージカル」。
松本白鸚さんをゲストに迎え、昨年12月14日に開催された「vol.3」のレポートをお届けします。
ここ数年、日本ミュージカル界には追い風が吹いています。
上演される作品もブロードウェイ作品、ウェストエンド作品のみならず、バラエティに富んだタイプの作品が上演され、さらにミュージカル俳優の映像進出も広がり、客層もどんどん広がっています。
長年 "ミュージカル界のプリンス" の称号と重責を背負っている井上さんは、「この状況をありがたく思う度に、日本ミュージカルの創生期に活躍された先輩方の情熱に思いを馳せて」きたそうで、「どうやってここまでたどり着いたのだろう」「過去を知ることは、未来を知ること」「これから先、どうすれば日本のミュージカル界はもっと盛り上がっていけるのか探りたい」と、このシリーズを自ら企画。第1回は草笛光子さん、第2回は宝田明さんをレジェンドとして迎え、先人の苦労やエピソードを紐解いてきました。
そして第3回の今回、「最高潮に緊張しています」と話しながら、白鸚さんのプロフィールを紹介。
★松本白鸚
初代松本白鸚の長男。初舞台は3歳。
歌舞伎だけでなく現代演劇、映画、ドラマとあらゆる方面で半世紀以上第一線を走り続けている名優。
1949年に市川染五郎(六代目)、1981年に松本幸四郎(九代目)を襲名。
そして昨年・2018年1月に「二代目松本白鸚」を襲名した。
なお、東宝が初めて海外ミュージカルを上演したのが、1963年の『マイ・フェア・レディ』。
その2年後の1965年に22歳で白鸚さんは日本初演のミュージカル『王様と私』(日本初演)に初主演。
翌1966年、『心を繋ぐ6ペンス』を芸術座で初演。
1967年、日本初演の『屋根の上のヴァイオリン弾き』にモーテル役で出演。
1969年、日本初演の『ラ・マンチャの男』に主演。
1970年には、『ラ・マンチャの男』で、日本人として初めてブロードウェイで主演。
1972年、オリジナルミュージカル『歌麿』に主演。
1990-91年、『王様と私』でウェストエンドで主演。
白鸚さんのミュージカルでの代表作でもある『ラ・マンチャの男』は今年・2019年公演も発表になっています。
実に半世紀にわたり演じてきた『ラ・マンチャの男』の話、歌舞伎俳優である白鸚さんがミュージカルに出演することになったいきさつ、「ブロードウェイ」といっても日本人の大半がピンと来なかった当時の話etc...を、軽快な井上さんのMCで、たっぷり語ってくださいました。
白鸚さんの第一声は、自身の登場前にそのプロフィールを語った井上さんに対し、「あなた上手いですね、司会が」。
その後、この日の会場である日比谷・シアタークリエの客席を見渡し「この劇場、懐かしい。昔は芸術座と言いましたが、19歳の時に出演していたんです......その頃、井上ヨッシーなんていなかったもんね」という話から、「娘の松たか子がヨッシーと呼ぶから......。ヨッシーでいいですか?」
井上さん、恐縮しきりです。
●歌舞伎俳優の白鸚さんが、ミュージカルに出演することになった経緯~『王様と私』
白鸚「18歳の頃かな。父(初代松本白鸚さん)が新天地を求めて、菊田一夫先生と手を組むことになったんです(松竹から東宝に移籍した)。それに、僕と弟(中村吉右衛門さん)が一緒についていったんです」
井上「ミュージカルをやるために東宝に移ったわけではないんですよね? 歌舞伎を東宝で、ということだったんですよね」
白鸚「そうです」
井上「東宝劇団で歌舞伎をやるはずだったところ、菊田一夫先生が「ミュージカルもやってみないか」と仰った?」
白鸚「そうです、そうです。歌舞伎役者がミュージカルやるということで、当人も、まわりも疑心暗鬼でしたよ」
※「東宝劇団」は東宝株式会社専属の演劇団体。白鸚が所属していたのは八世松本幸四郎(初代白鸚)を筆頭に歌舞伎俳優たち36名で結成された「第2次」。松竹の専売特許だった歌舞伎を上演、演劇界にセンセーションを巻き起こした。歌舞伎のほか、現代物も上演していた。
白鸚「大変でしたよ。日本産のミュージカルはなかったし、(劇団四季の)浅利慶太さんもまだミュージカルはやっていないなかった。江利チエミさんが『マイ・フェア・レディ』(1963年)をやったくらいでしたね。僕は運命とか宿命とか仰々しい言葉はピンとこないんだけど、自分の人生、縁がある、と思います。今、芸術座がシアタークリエになって、若いお客さんの前でこういうお話をしているのも縁。縁も、断っちゃえばそれまでですが、それをやっちゃったんですよねぇ~」
井上「与えられた機会は積極的に受け入れるタイプですか?」
白鸚「そうですね。ブロードウェイ出演の話も、ウェストエンド出演の話も向こうから来たんです。僕、「今」が好きなんです。歌舞伎という伝統の世界にいながら、確かなものは「今」。(舞台上にある舞台写真を指し)あれは築いたものであって、それが今に繋がっている。ブロードウェイで(ラ・マンチャの男の)『見果てぬ夢』を歌っていたのは、娘のたか子が歌う『アナと雪の女王』を聞くためだったのかなって思っちゃう。日本の歌舞伎役者がブロードウェイで英語で主役をやったということはふっとんじゃって。『王様と私』も、22歳の時に初めて王様役をやったのですが、のちにその役を下ろされてしまったんです。その時僕は『王様と私』に別れを告げようと、ユル・ブリンナーがキングをやっていた公演を(ブロードウェイに)観に行ったんです。その後、ブリンナーから食事をしないかとお誘いいただいて、「実はブリンナーさん、僕は王様役を下ろされてしまったんです」と話したら、彼が「ネクストキング イズ ユー」と。涙が出ちゃった。その言葉をアルフレッド・テニスンの詩集とともに日本に持って帰って、2・3年後かな。イギリスのプロデューサーからウェストエンドで『王様と私』のキングをやってくれないかとお話が来た。これも縁ですよね」
そうです、白鸚さんはブロードウェイで『ラ・マンチャの男』の主役を、ロンドン・ウェストエンドで『王様と私』の主役を務めた、いわば「世界に羽ばたいた日本人ミュージカル俳優」のパイオニア!
そんな話の中で、「その時から観てくださっている方が客席にいらっしゃる」と、白鸚さんからご紹介をされたのが、評論家の安倍寧さん。
安倍さん、『王様と私』の初演のパンフレットにも寄稿されているそうです!すごい。
飛び入り参加の安倍さんからは「「ミュージカルをやらないか」って言われたら、普通は「私は歌舞伎の人間なのでやりませんよ」とお返事をされるんじゃないかと思うんですが、勧められたらその気になってミュージカルに行っちゃったのは、どうして?」という、なんともざっくばらんなご質問が。
▽ 写真左:安倍寧さん
安倍「新しいことに挑戦しようという気質が高麗屋の中にあるんじゃないですか?」
白鸚「チャレンジャー、挑戦者の気質は祖父(七代目松本幸四郎)の代からあったのかも。皆さん信じられないでしょうが、祖父は歌舞伎座で昼間シェイクスピア劇などの洋物をやり、夜は勧進帳をやっていたんですよ。同じ場所で昼夜で西洋ものと歌舞伎をやっていた。だからそういう気持ちもあった。でも一方ではやるからにはブロードウェイまで行ってやろうと思っていました」
安倍「ずうずうしいねえ」(会場爆笑)
白鸚「でもチャレンジャーと言うと、どうしてもアマチュアリズムを感じてしまうんです。そこはプロフェッショナルでありたい。僕はアーティストというより腕に芸をつける職人でありたいんです。腕に芸のない歌舞伎役者は歌舞伎役者じゃないと思います。ミュージカルでもそれは言える。『スウィーニー・トッド』の時かな、共演のオペラの方に「染五郎さんを見ていると、歌っていたと思うと叫んで、叫んだかと思うと泣いて、笑っている。オペラの場合、アリアはアリアとして歌い、叫ぶセリフは叫び、笑うところは笑う。それぞれの発声がある。だけど染五郎さんのは(境目がなく)どういう発声をしているんですか」と質問されたんです。僕は一晩考えたのち、「僕は歌舞伎俳優だけど『スウィーニー』の時は歌舞伎の発声ではなく、オペラの発声でもない。ひょっとしたらミュージカルの発声をしているんじゃないかな」と答えた。世阿弥の花伝書の中に「物真似の芸」ってあるんですよね。それは今でいうモノマネじゃなくて「肚」だと思う。例えばこのあいだ歌舞伎の方でこんなことがありました。早口で言うセリフをある俳優さんが早口で喋ったんです。そうすると噛んだりつっかえたりする。僕は「君ね、早口のセリフを早口で喋るのは普通の人がやること。我々役者は、ゆっくり喋って、早口で喋っているように聞かせる。それが芸でしょ」と言ったんです」
井上「それが、「物真似の芸」であると」
白鸚「世阿弥は物真似と言ってます。それはミュージカルでも歌舞伎でも同じですね。観察力です」
......ここで客席からこの日一番の唸り声が起こりました!
その後、話題はこの日の会場・シアタークリエの前身である芸術座で上演されたミュージカル『心を繋ぐ6ペンス』の話(歌舞伎役者がコメディ・ミュージカルに!しかもダンスもある!...そして白鸚さんは公演中にヒラメ筋を損傷し足がブラブラになりながら演じきった、というエピソードなども...)になり、
▽ 『心を繋ぐ6ペンス』(1966年) 白鸚さん、踊ってます!
▽ 「ご本人を前に歌うって、ほぼ罰ゲームなんですけど...」と言いながら、劇中歌『心を繋ぐ6ペンス』を披露する井上さん
さらには『王様と私』の話へ。
ウェストエンドだけでなく、英国内のツアー公演もやって、英国の地で半年・全207ステージに出演した白鸚さん。
ここでも、公演帰りに白鸚さんが乗ったタクシーの運転手さんが「日本から来た『KING & I』のKINGだね。とても良かったから御代はいらないよ」と言ってくれたという話や、劇場で小火騒ぎが起きて公演が中止になってしまった話など、様々なエピソードが飛び出します。
●「やめないで続けようよ。日本にミュージカルが根付くまで」
そんな流れの中で井上さんから出た「ミュージカルをやり始めた当初のお客さまはどんな層だったのか」という質問に対する答えが、とても心に染みたのでご紹介いたします。
白鸚「『王様と私』の初演のころは、舞台のお客さまは歌舞伎、新劇、宝塚、松竹新喜劇、新国劇、新派のお客さまでした」
井上「歌舞伎のお客さまは歌舞伎しかご覧にならないとか、そういう感じだったんでしょうか」
白鸚「そうそう」
井上「ではミュージカルをやり始めた頃だとミュージカルを知ってる方もいないじゃないですか。それが少しずつ増えてきた、ということでしょうか」
白鸚「そうですね。菊田一夫先生が「染五郎君、続けようよ。やめないで続けようよ。日本にミュージカルが根付くまで続けようよ、頑張ってくれよ」って言ったんです」
......ここで白鸚さんたちがミュージカルへの挑戦をやめずに続けてくれたからこそ、今の日本ミュージカル界があるのですね!!
なおこの話はこのように続きます。
白鸚「......という言葉を菊田先生から頂いた時、ちょうど芸術座の舞台事務所の電話が鳴って。新聞記者の方から「今、外電で、ブロードウェイで染五郎がドン・キホーテをやるというニュースが入っているけれど本当か」と。僕はその時はまだその話は聞いていなかった。その頃菊田先生は『スカーレット』という(オリジナル)ミュージカルを作っていて、ブロードウェイに売り込もうとしていたんです。そんな時に、僕に『ラ・マンチャの男』のブロードウェイ出演の話が来た。その時の菊田先生の顔(笑)! 嬉しいのと、こんちくしょうというやっかみと(笑)」
井上「やっかみ、ですか?」
白鸚「先生にしたら『スカーレット』より先にお前がブロードウェイに行くのか、という思いですよね。そんな顔で「...オメデトウ...」と言ってくれました(笑)。でもね、僕に聞きもせずに「引き受けます」と言う方も言う方ですよね!」
井上「え、その場で!?」
白鸚「その話が本当なら引き受けます、と。その時台本はもちろん手元にはない。僕は丸善で『ラ・マンチャの男』の洋書の戯曲を買いました」
● 日本初演から半世紀!『ラ・マンチャの男』
井上「その『ラ・マンチャの男』は次回の上演で1300回を迎えます」
白鸚「そうなんです。1969年から半世紀、50年。最初は26歳の時でした。ブロードウェイに行ったのは27歳」
井上「『ラ・マンチャの男』との出会いはどういった経緯だったのでしょう」
白鸚「親父がブロードウェイで『ラ・マンチャの男』を観て、感動して、菊田先生に電話をして「これを染五郎にやらせてくれ」と言った。それで東宝さんが版権を取ってくれたんです。当時は僕のドン・キホーテとサンチョの小鹿番(当時は小鹿敦)さんはひとりですが(シングルキャスト)、アルドンザ役が3人いらした。草笛光子さんと浜木綿子さんと西尾恵美子さん」
井上「(レジェンド1回目のゲストだった)草笛さんは、稽古が辛くて、橋から飛び降りようと思ったと仰っていました」
白鸚「僕の方がもっと辛かったよ、稽古も3回するんですもん(笑)。それで、今でも忘れられないのが、宣伝部の方が「このミュージカルはどうやって宣伝したらいいかわからない」と仰っていたこと。すごく哲学的なミュージカルなんだけど......って」
井上「今でさえ、ブロードウェイミュージカルというと、明るい華やかなコメディやドラマチックな作品という印象ですから」
白鸚「そうです。端的に言うとドン・キホーテの理想主義と、カラスコ博士の現実主義が対立する。(ドン・キホーテは)騎士の格好して世の正義を、真実を守るために戦っているけれど、お金もない、病気もしている、いやなことも辛いこともある、これが現実だって言われてしまう。「いつの時代も現実は真実の敵だ」。すごい哲学的でしょ。だから宣伝部の方はどうやって宣伝したらいいのか悩んでいましたね」
井上「しかも帝国劇場という大きな劇場で。これはなかなか難しいんじゃないかっていう空気だった?」
白鸚「これは二度と再演は出来ないと思っていました」
井上「それがまさか半世紀後も演じているなんて...」
▽ 『ラ・マンチャの男』(1970年、ブロードウェイ マーティン・ベック劇場)
▽ 『ラ・マンチャの男』(2002年、帝国劇場)
白鸚「そうですねぇ。それも出会いなんですよね。白鸚が『ラ・マンチャの男』と出会う、それは屋上から目薬を差すようなものです。だってブロードウェイで主演して、帰国した時のマスコミの方の第一声がね。まだ飛行機の乗降にタラップを使う時代で、降りる時に、やわらかい薄手のワンピースを着ていた家内のお腹の部分が風で膨らんだの。そうしたら「奥さん、おめでたですか」って(苦笑)。ブロードウェイの「ブ」の字も出なかった...」
井上「そのくらい、日本人にとって「ブロードウェイってなんだ?」って、ピンときてなかったんですね。今とは全然違う」
白鸚「ほんとうに菊田先生が生きておられたら今の状況を喜ばれたでしょうね。そういえばノリちゃん...勘三郎君(十八代中村勘三郎さん)がNYで公演をやった時に、電話をかけてきました。「兄さん、こんなところで公演をやったんですか、イギリスでは半年もやったんですか。よくできましたね、兄さん、あなたは歌舞伎界の野茂だ!」って(笑)。野茂は引退したけど僕はまだ引退してないと言おうと思ったらガシャンと切られました(笑)」
井上「現地にいって体感しないと、わからないくらいの凄さだったんですね。どう考えても大変。英語で、主演。しかもこういう難しい作品を」
白鸚「本当に、ねぇ。でも今思えば、歌舞伎は「真似る」が「学ぶ」なんです。先ほどの「物真似」。僕は英語の先生であるドン・ポムスさんのセリフを一字一句真似ていた。それは歌舞伎の修行の仕方と同じだったんですよね。そしてこのドンさん、なんと僕がブロードウェイに行く数年前に、親父がブロードウェイの役者に歌舞伎の『勧進帳』を教えていて、その時弁慶をやっていた方だったんです。これも縁だよね。
ドンさんは、相手が言い間違えた時どう返すか、といったことまで教えてくれた。言い間違えててもこれとこれは同じ意味だから、理解して返しなさい、とか。よくthink、think、don't act......芝居をするな、考えろって仰っていました」
井上「芝居をするな、考えろ...ですか。深いですね。そうして英語で演じた『ラ・マンチャの男』ですが、ブロードウェイのお客さまに伝わったという実感は?」
白鸚「ある日の晩、最前列にいたニューヨーカーの初老のお客さまが最後の僕のセリフのところで、ハンドバッグからハンカチ出して目頭ぬぐってくれたんです。(照明が)暗いシーンで、そのご夫人が胸元で握り締めている白いハンカチが白い玉にみえて、それが光って、僕は英語でセリフを言いながらその玉の中に引き込まれていった。僕はこの気持ちを味わうがためだけにブロードウェイに来たんだと思えた。その時はやっぱり、変わりましたね。人間としても俳優としても。気持ちが。大事なことがなにか、やりたいことは何か。「大切なことは、目に見えない」と星の王子さまが言ってますが、その時にこれ(が大切なことだ)と思いました」
......「そいういう思い出があるので、来年50年か......と思って」としみじみと語る白鸚さん。
「この流れで僕は歌を歌わなければならないのが非常に厳しい」と井上さんが困ったように言う中、突然白鸚さんがピアノ演奏の林アキラさんに向かって「(イントロは)バンプ?」と問いかけ...
「じゃあイントロダクションの(セリフ)部分を......英語で、ブロードウェイを思い出しながらやります」と白鸚さん!
これには井上さんは本気で「えっ!」と驚き、客席は大拍手です!
朗々と滑らかに、「His name...is Don Quixote de La Mancha!」までの口上を白鸚さんが英語で語り、井上さんによる『ラ・マンチャの男』の披露となりました。
▽ 歌い終わって「幸せでした」と井上さん。白鸚さんは「本当にいい歌は、大きな声が出るものでも技術を駆使する歌でもないんです。聞いている人が思わず歌いたくなるような歌が本当にいい歌。井上さんの歌は素晴らしかった」。
●この先の日本ミュージカル界について
最後に井上さんより「日本から世界に発信するミュージカルを生み出すためにはどうすればいいか」という質問が。
白鸚「先ほど言ったみたいに、僕は「今」が大事なんです。今は決して素晴らしい時ではないかもしれないし、過程だと思う人もいるかもしれないし、今が嫌な時だという人もいるかもしれない。でも「今」なんだ。僕は歌舞伎の稽古をしなきゃならない今も、井上君とお話をしている今も、今がたとえどんなときでも愛しい。今を大事にしないともったいない。(客席に向かって)井上君のいい舞台をご覧になると得した気持ちになりませんか?(客席から拍手)お芝居もミュージカルも歌舞伎も、そういうものです。ご覧になった方が、ひとつ、自分の人生で得をしたなというもの。たかがミュージカル、されどミュージカル。それは忘れたことはないですね」
井上「僕らはいつかブロードウェイに行きたいとか先のことを考えるんですが、白鸚さんは今を重ねた中にブロードウェイやウェストエンドのお誘いがあったと......」
白鸚「そうそう。今現在までやり続けてきたことが過去から全部繋がっている。だから、「あなどるなかれ、今を」ですね」
ホスト役の井上さんは「このシリーズはいつも、始まる前は緊張して、終わると幸せ。今日も大切な言葉をたくさんいただきました。自分たちがやらせてもらっている舞台をどんな状況でも必死にやることが、先に繋がっている。白鸚さんたちがそうやって今までも、これから先までも続けてくださっているということを改めてひしひしと感じました」と総括。
「この貴重なお話は今日ここでしか聞けないものですので、拡散してくださいね!」とのことでしたので、以上、レポートでした!
取材・文:平野祥恵(ぴあ)
写真提供:東宝演劇部
【公演情報】
『ラ・マンチャの男』日本初演50周年記念公演
10月 帝国劇場で上演