図書館と劇場
たとえば、知り合いと、それぞれが暮らしている地域の話をしていて、
知り合いの住む地域には図書館がないと聞いたらどう感じるか。
えっ、ないの? 一つも?
ブックオフもない?
小さな本屋さんしかないんだ...。
テレビやラジオはある。インターネットもある。
それから情報を手にすることはできる。
新聞や週刊誌だってある。
けれども学校にも、コミュニティにも図書館がなかったら、
そりゃ、私だってめったに図書館なぞ行きゃしませんが、
何か、そこに暮らす人々が、
知的に少しいびつになってしまうんではないかと心配する。
考えすぎか。
子供のころから図書館は身近にあった。
小学校にも中学校にもクラスに図書委員なんていうのがいた。
夏休みにともだちと図書館で涼んだこともあった。
大学にも学部図書館、大学図書館、博物館の図書といろいろあった。
利用するときは、大抵面倒に感じながらではあったけれども。
さて、ここから本題。
ヨーロッパの人たちの目線で見ると、
日本には劇場が存在しているようには見えない。
立派なホールや会館はある。
すばらしい俳優さんやスタッフさんもいる。
けれども身近な劇場で、毎日いろいろなお芝居を楽しめる
という地域がどれだけあるだろう。
しかも安価に。
ヨーロッパをはじめとして、
日本をのぞく先進国では、
子供のころから学校でも家庭でもしょっちゅう劇場に行く。
子供専用の劇場が街に一つはある。
日本の図書館のような感覚。
町なら町の公立劇団、市なら市の公立劇団、
県立劇団、国立劇団もそれとは別にある。
それらの劇団は本拠の劇場を複数持ち、
毎日のように違う演目をそれらの劇場で上演している。
しかも安価に。
ええっと、話したかったのは、
そういう制度のことではなかったんだな。
劇場が、私たち日本人にとっての図書館のように存在していると、
演劇の楽しみ方も、ちと違うということが言いたかったのである。
今回、山の手事情社では、
「オイディプス王」
「タイタス・アンドロニカス」
という作品をやるが、
ストーリーがわからない、というのが、
お客さまから出てくる不満の中では多い。
実はストーリーがわかりにくいのではなく、
演劇におけるストーリーの把握方法に慣れていないだけでは?
というのが私の個人的な見解だが、まぁそれは置いといて。
ストーリーがわかるか、わからないかが
ヨーロッパで議論されることはほとんどない。
江戸時代に歌舞伎のストーリーがわからない、
ということが江戸の観客のあいだで問題にされなかったように。
お話はある程度わかっているもの。
そいつをどのように料理しているか、
それを見るのが演劇の楽しみ方。
王道です。
ヨーロッパも、江戸時代も。
もちろんヨーロッパの作品だから知らない、ということはある。
じゃ、日本の作品だったら、
何ならば、誰の作品ならば皆さんご存知だろう。
近松門左衛門...知らない。世阿弥...誰それ。
ほとんどないんですよ、ざんねんなことに。
浦島太郎ならオーケーか。
ほかにないかな。
現代日本人は古典の言葉を失っている。
自分たちが暮らす社会以外の価値観にとても鈍感だ。
これは、今は目に見えないけれども、
私たちの社会をはたから見て、
いびつなものにしている。
私はそう確信し、危惧している。
こんな芝居の楽しみ方しかできない民族が、
先進国として長続きできるわけがない。
あ、急いでフォローしておきますが、
今回の公演でストーリーがわからないということはないと思います。
そもそも、それほど難しい話ではないし、
しっかりと説明しようと思ってますんで。
☆『オイディプス王』追加公演決定☆ 9月5日(日)18時開演
『タイタス・アンドロニカス』
ルーマニア公演ダイジェスト版
YouTubeにアップしました。