皆さんは東京オリンピックで銅メダルを獲得した円谷幸吉さんをご存知でしょうか。
彼はメダル獲得後、挫折や苦悩を経て最終的には自殺という道を選ばれました。
そして彼が東京オリンピックで銅メダルを獲得した四年後にメキシコオリンピックでライバルでもあり友人でもあった君原健二さんが銀メダルを獲得しました。
孤独に走るマラソンという競技の中で無言のうちに手渡されたバトン。そして物語のように美しい二人の人生を多くの人に伝えたいという谷賢一さんの思いを形にするべく「光よりも前に~夜明けの走者たち~」という舞台の脚本・演出に挑戦することになりました。
今回、ランナーのリアルを取材するべく本公演の陸上特別監修である原晋さんが監督を務める青山学院大学の合宿先を訪れました。そこで谷賢一さん感じたことを日誌にして「げきぴあ」で特別に公開させていただきます。ぜひご覧下さい。
【左から谷賢一、原晋】
『光より前に』取材日誌 筆:谷賢一
□8月上旬某日、ジョグ練習
青山学院大学の合宿先、長野県・菅平に到着。東京の蒸し暑さに比べるとひんやり涼しく、風も爽やかに感じる。気温も10度は低いらしい。練習場へ向かう道すがら、すれ違うのは真っ黒に日焼けしたTシャツ姿の逞しい青年たちばかり。みな陸上、ラグビー、テニスなどの選手たちだ。他にチャラチャラした観光客の様子などはほとんど見えず、この高山の集落一帯がすべて「特訓」のための前線基地になっているようだ。
原監督との待ち合わせ場所へ向かうと、青学の若き走者たち40名ほどが入念にアップをしている。30分近くかけて筋を伸ばしたり関節を回したり。「こんなに時間をかけるんですね?」と私が尋ねると、原監督はこう返した。
「うちほどじっくりやるとこはないですよ。故障したらどうしようもないですから。一日ステーキ食ったって成長しないでしょう? 同じです、鍛錬期の練習は毎日やらにゃあかんですから」
青学は故障率が低い「青トレ」メソッドで特に有名である。さっそく青学らしさが目に見えて面白い。
少し移動し、トレーニング用のトラックに入る。今日の練習は24kmの「軽いジョグ」。24kmの何が軽いものかねとすっかり私は当惑するが、「今日はあくまで基礎練習だから。競い合わず、基礎をつける。ゆっくりのペースで24キロ」と原監督。短く挨拶を交わすと選手たちは颯爽と駆け出した。
一周、二周、三周と、他校・他大学の選手たちに混じって次々と駆け抜けていく。ぐっと歯を食い縛り、眼光鋭く前を見据え、引き締まった身体に汗でぴったりトレーニングウェアを張り付けて走る選手たち。原監督が選手のフォームについて話してくれた。「うちの選手はフォームが綺麗でしょう? 肩胛骨がぐっと浮き出して、手をこう、根本から大きく振ってね」。トラック内にはすっかり息が上がってしまった選手や高校生も混じっており、そういった......言い方は悪いが「ダメな」フォームと比べると、青学勢のフォームの良さは確かに際立っている。腰が落ち、顎が前に出てすっかりフォームが崩れてしまった選手を見て、原監督は「あんな風になるくらいなら走らない方がいい」「逆効果だ」とさえ断言する。正しい・美しいフォームで走り続けることで、正しく美しい筋肉をつけなければならないからだ。
原監督やスポーツ報知のT記者らに長距離走のことや駅伝のことなど解説して頂きつつ、じっと選手を眺める。
......練習をただ2時間半、見ているだけで気持ち悪くなってしまった。何も炎天下にやられたとか残っていた昨夜の酒がとか、そんな理由ではなく、選手たちの走りがあまりに壮絶で信じられず、理解を超えていて、気持ちが悪くなってしまったのだ。500mにつき1分40秒くらいのペースで、これがどれくらい速いのか遅いのか、私にはちょっとわからない。非常にざっくり例えると、街中で見かけたら目を奪われるレベルの速さ、ママチャリより早くて原付きよりは遅い程度の速さ、紙飛行機が飛ぶくらいの速さ......伝わるだろうか、この例え。彼らにとっては「ジョグ」のレベルらしいが、素人目にはかなり速いペースに見える。
そんな速度で走り続けて、全く息が乱れない。疲れた様子も、苦しそうな様子も見えない。ただ淡々と約1時間半、前だけを見て走り続ける。表情はほとんどなく、きりっと口を結んで前を見据えて走るその姿は、修行僧のような印象を私に与えた。
私はてっきり、こう想像していた。徐々に弾んでいく息、歪んでいく顔、脱落する選手も出始め、それぞれが死力を尽くし......。そんなことは全くなく、ただ毎週1分40秒のペースで延々、淡々と走り続ける。私はそれを、ずっと見ている。徐々に目の前の光景が信じられなくなってきて、最後の方では「ゴールしたらきっと」と期待していた。きっとみんな、緊張の糸が切れたようになり、地面に倒れ込む者や頭から水を浴びる者などが出て、ぜいぜいと肩で息をしている、そうに違いない!
しかし期待は裏切られ、ほぼすべての選手がゴールしても表情一つ変えず、「脈取りまーす」というマネージャーの声に従い頸動脈に手を当てて脈拍を取り始めた。疲れた様子はほとんど見えない。トップレベルになると、こういうことになるのか。
陸上をやっていた俳優の友人が「10キロくらいなら息を切らさず楽々走れる」とか言っていたのを聞いたことはあったが、いざ目の前にしてみると恐ろしい光景だった。
もっとも、こんなものは彼らにとっては当然すぎることなのだろう。演劇やっててお客さんに「よく台詞覚えられますね」と言われるのと同じようなことだろう。ジョグで24kmを走るというのは。
□朝練習 坂道TT
青山学院大学・合宿名物だという坂道タイムトライアル、略して「坂道TT」。集合時間は朝の五時半。......不健康が売りの演劇人代表としては、この時間に集合するだけで一苦労だ。ましてやこの時間から走るなんて!
監督曰く「この時間から」走ることに意味があるのだという。まだ身体が起き切っていない朝の早い時間に走るという負荷をかけることで、坂道への適性があるかどうかが見えてくるのだと言う。そして「坂道適性」のある新入部員は、将来に箱根の坂を走る「坂道候補生」として先を見据えた特訓が始まる。坂を制す者は箱根を制す、というのは本当だそうで、このように入念な対策もとるのだという。
五時半に集合し、青学らしく念入りに45分かけてアップが行われる。関節を伸ばし、筋肉をほぐし、軽く坂道をジョグして体を慣らす。監督やコーチが目を光らせているわけでもないのに自発的にアップは行われ、驚くほど私語が少ない。それぞれが己の調整に余念がない。あくびをかみ殺し落ちてくる瞼をこすっているのは私だけで、全員の瞳に静かな闘志がみなぎっている。
そして、
「菅平の坂もきついですから。走り出したら、昨日とはまったく違う表情が見れますよ」
と不敵に笑う原監督。
六時半と同時にスタートの号令がかかる。40人からなる選手団が一斉に菅平の高地を駆け下り始めた。ジョグのときと比べれば1.5倍は速いのではないかと思われるスピード感。ほとんどダッシュと言っていい。見る見る遠ざかっていく選手たちの背中を、我々取材クルーはバンで、原監督は自転車で追いかける。
標高1500mはあるという高台の上の合宿所から、まず長い長い坂を駆け下りて、街の中心の平地部を二周し、再び坂を登り戻ってくるというコースだ。40人の選手団が一糸乱れぬ一団となって菅平の高原を駆け下りていく。視界には濃いもやが真っ白く立ち込め、ほんの30m先の様子が見えない。選手たちが対向車とぶつかるんじゃないか......そんな心配さえ頭をよぎるほどもやは濃く、選手たちは速い。時折停車したバンからマネージャーたちの一団が素早く駆け下りて選手たちに併走しながら、水分補給用のボトルを手渡してやる。
昨日までのジョグとは打って変わって速いペースだ。20.8kmを1時間10分程度で走り切るという。最初の10kmは40人全員がきれいにまとまって走っていたが、平地部の二周目に入った頃から一人、また一人と集団から落ちこぼれる走者が出始める。
「どうした! まだ始まってもいないぞ!」
監督の檄が飛ぶ。原監督にしては珍しい。昨日は「私は滅多に怒鳴りません。怒鳴ってタイムが縮まるなら、楽なもんですよ」と怒声の効果をディスカウントして見せた監督だが、早すぎる脱落には見るに見かねて激励の声を飛ばした。「始まってもいない」とはこのタイムトライアルの最後の山場、坂道登りにさえ入っていないということだ。最後の坂道で脱落していくのならまだしも、そこに差し掛かる前に後れをとってどうすると、そういう意味だろう。
いよいよ最後の坂道に差し掛かった。選手たちはもう一時間近く走っている。早朝。標高1500m。そして猛烈な坂道......。はっきりと選手の顔が歪み、ありありと苦痛が浮かび始める。眉間に皺が寄り、脂汗が浮かび、口は歪んで、あるいはだらしなく開き、フォームが崩れて体中の動きがバラバラになっていく。空中を泳ぐようにみっともなく手足を振り回しながら、一歩ずつ坂を駆け上っていく者もいる。ギュッと腹を押さえて歯を食いしばっている者もいる。昨日までの「眉一つ動かさないジョグ」とは打って変わって、表情と身体の全てがありありと苦痛を物語っている。地獄の沼から這い上がろうとしている亡者たちを絵に描いたら、きっとこんな表情をしているだろう。
バンは後続集団を追い越して先頭集団に並んだ。不思議なことに、いや当然のことなのだろうか? 先頭集団はフォームも美しく、表情も歪んでいない。みな顎を引き、キリッとした表情を維持したまま大きく腕を振って走り続けている。ペースを維持するというのはこういうことか。しかし、とんでもない急な坂道なのだ。サイドブレーキを引かなければあっという間に車が落ちていくくらい急な坂を、ぐいぐいと上っていく。それなのに先頭集団はフォームも表情も美しく、覇気に満ちており、凛々しくさえ見える。さっきの「地獄の亡者たち」と比べると雲泥の差だ。
ゴールの瞬間にもその差は歴然と光った。一位でゴールした走者は何と笑いながら、両手で大きくガッツポーズをしながら......ほとんど「ひょうきんに」とさえ言えるような様子でゴールしたのだ。彼は勝ったのだ、この坂道TTに。そして勝利の喜び、完走の充実を全身全霊で表現している。一方、下位グループの中にはゴールと同時に地面に倒れ込み、白目を剥いて痙攣するような者もあった。あわてて監督やコーチが安否確認に赴き、様々な応急処置を施していく。ここまで、早朝の練習でここまで己を追い込まなければならないのか。時刻はまだ、午前八時にもなっていない......。
<公演情報>
[東京]2018年11月14日(水)~11月25日(日)紀伊國屋ホール
[大阪]2018年11月29日(木)~12月2日(日)ABCホール