倉持裕の作・演出による『イロアセル』が11月11日に新国立劇場にて開幕した。2011年に倉持が同劇場での上演のために書き下ろし、鵜山仁の演出で上演された戯曲が、今回は倉持自らの演出で、フルオーディションで選ばれたキャストによって上演される。10年前、SNSの隆盛により、多くの人々が匿名で社会に向け発信するようになったことを念頭に、その結果、露わになる社会のひずみや人々の黒い本音をえぐり出した本作だが、10年を経て、このテーマ性がさらに際立つ仕上がりになっている。
物語の舞台はとある島。ここで暮らす島民は、それぞれに特定の"色彩"を持っており、言葉を発したり、文字にしたためると、その言葉が個々の色を帯びて浮かび上がるという特異な性質を持っている。多くの島民はスマホのような機器を持ち歩き、それによってこの"色"を感知・識別することができる――つまり、誰がどんな発言をしたかが全島民の間で共有されるという状況で生きている。この島に、本土からひとりの囚人と看守がやって来て、丘の上の檻に収容される。そして、この丘で囚人と面会している間は、島民の言葉に色がつかなくなることが発覚する。発言の"匿名性"を手にしたことで、島民の間で様々な変化が生じることになり...。
撮影:引地信彦
囚人がやって来る以前の島では、上記の通り、誰がどんな発言をしたのかが即座に共有されてしまうため、人々が"悪意"のこもった言葉を他者にぶつけたり、誰かを貶めたりすることは、一部の例外を除いてなかった。例えば、島民の必需品である"ファムスタ"と呼ばれる、人々の言葉の色を集めたり調整する機器を販売する会社「ブルプラン」の社長・ポルポリが、同機器新作の開発を、下請けの「グウ電子」一社に任せることを発表した際には(※正確には発表したというより、ポルポリとグウが2人で応接室で会話しているだけなのだが当然、その内容は全島民に筒抜けになる)、ライバル会社の人々からさえも祝福の言葉が贈られ、妬みや誹謗などは見えない。
そうした状況は濁りのない"キレイ"な社会であると言えるかもしれないが、見方を変えれば人々が本音を押し殺した、表面的な建前の言葉だけで成り立っている社会とも言える。
だがこの状況は、囚人の出現で一変する。囚人と話す時だけ、自分の言葉の色がなくなることを知った島民たちは、こぞって囚人の元を訪れ、これまで胸にため込んだ"本音"を吐き出すようになる。さらに、囚人はそこで知った事実を紙に書きとめ、その内容を記した"文書"が島中にバラまかれたことから、それまで無垢だった社会は一気に濁りを帯びていくことになる。