2020年1月、シアタークリエで上演される『シャボン玉とんだ 宇宙(ソラ)までとんだ』 。
もともとは「音楽座ミュージカル」がその旗揚げ作品として1988年に初演した作品です。
いま現在活躍するミュージカル俳優の多くが影響を受けた名作『シャボン玉とんだ宇宙(ソラ)までとんだ』はどんな経緯で誕生したのか。
音楽座ミュージカル チーフプロデューサーの石川聖子さんにお話を伺いました。
●『シャボン玉~』誕生秘話
―― 最初に『シャボン玉~』を創ることになった経緯を教えてください。音楽座ミュージカルさんの、旗揚げ作品ですよね。
石川「劇団音楽座という、桐朋学園の演劇科の卒業生で作った劇団があり、彼らが株式会社サマデイを経営していた前代表(故・相川レイ子氏)のところにスポンサードを依頼してきたのが始まりです。前代表自身は事業家で、当初は作品には口出ししませんでした。でも1987年に主要メンバーの大半が抜け、劇団がガタガタになる事件が起こった。その時に相川が残ったメンバーを集め、「これからは自分が創りたい作品を、自分のやり方で創る。それに賛同するのなら残ってください」と話したら、メンバーは全員、一緒にやりたいと言った。そこから始まったのが"音楽座ミュージカル"なんです」
―― ちなみに石川さんはいつから音楽座ミュージカルに?
石川「前代表がサマデイグループを起業(1979年)したときから一緒にいました。劇団を引き取るという話が出た時に、一番反対したのが、私(笑)」
―― そうなんですね。そしてそんな波乱万丈の出発だった音楽座ミュージカルが旗揚げ作に『シャボン玉~』をやることにしたのは。
石川「その時にすでに翌年・1988年5月に(もともとの劇団音楽座で)何かやるつもりで本多劇場を押さえてあったんです。何をやりましょうか、となり、筒井広志さんの小説『アルファ・ケンタウリからの客』はどうかという提案があった。劇団員のひとりがだいたいの粗書きを持ってきて.....あの、前代表って変わった人で、ちゃんと読まないんですよ(笑)。パラパラっと最初と最後に目を通しただけで「これでいいわ、これでいきましょう」って」
―― 何かピンと来るものがあったのでしょうね。
石川「ただ、その時の粗書きは、今の脚本に100分の1も残っていないと思います(笑)。私、その時まで、代表が脚本や演出の才能があんなにある人だって知らなかったんです。いろいろな事業をやる人で、絵画・映画・哲学・物理学に造詣が深い人ではあったのですが、『シャボン玉~』から始まって、こんなに一連の作品を創り上げる才能がある人だって長年一緒にいたのに知りませんでした。音楽座ミュージカル12作品には、相川の強烈な哲学が流れています。脚本から演出から何から何まで、すべてにすごいセンスがあった。相川は物語の枠組みを使って、自分の思いを作品に入れたい、と言っていました」
―― ご自分の思い、ですか。
石川「相川は自分が生きていく上で必要なものをそこに入れ込んだのだと思います。そばにいて、大きな穴ぼこを抱えているような人だと感じていました。それを埋めるために音楽座ミュージカルを創ったのかなと。こういう風に生きれば自分も生きていけるんだって、自分を励ますために創った作品群。それが、観る方の共感を生んだのではないかなと思います」
―― 音楽座さんの作品群に登場するキャラクターは、皆、一生懸命生きていますね。
石川「はい、ご覧になっている方はおわかりかと思いますが、いろいろな手法を使っていろいろな題材をやっていながら、言っていることは常に同じ。けっして立派な人が出てくるわけではない。私たちと同じように問題を抱え、過去や葛藤と闘い、傲慢さや卑怯さもあり。弱い心を持つ人間が、いったいどうやったらちゃんと生きられるんだろうということを、作品に仮託し、歌とダンスという抽象性の高い手法で、説明ではなく感じてもらう...というものです」
―― 『シャボン玉~』初演時の現場はどんな感じだったのでしょう。
石川「前代表が「演出に横山(由和)さんを呼びましょう」と言い出して、彼は(もともとの劇団音楽座から)去っていたメンバーのひとりですから、劇団員たちは怒りましたよ(笑)。結局代表の意向でお迎えしたんですが、現場にはものすごい葛藤と憎しみが渦巻いていましたね(笑)。大混沌の中で生まれた作品なんです。そういう意味ではエネルギーがあったかもしれませんが、けっして、美しい枠組みの中で出来た美しい物語ではないんです(笑)」
▽音楽座ミュージカル『シャボン玉とんだ宇宙(ソラ)までとんだ』より 土居裕子、佐藤伸行